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それは財団法人店舗システム協会の活動です。1972年にJAPAN SHOPを単独主催でスタートさせ、1973年より日本経済新聞社にも共催して加わってもらい、以来1973年より財団法人店舗システム協会(SSSS)と日本経済新聞社との共催によりアジア最大の店づくりとまちづくりの展示会として産業界に貢献してきました。

トピックス

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★ご参加しませんか。シニアの活動をめざす方に情報が豊富です!
尚、表彰式の後には、交流懇親会もあります。(参加費500円)
★エコツーリズムガイド等養成研修の受講生募集開始!(締切12/16)


環境省は、地域の自然観光資源(景観、野生生物、温泉等)、歴史や伝統文化等を解説し、自然や地域の魅力を伝えるエコツアーガイドやエコツーリズムによる地域の活性化に取り組む地域コーディネーターを養成する研修の受講生を募集します。講師陣は各地の第一線で活躍されるエコツアーガイドや、旅行会社、大学教授など、様々な立場の方が講義します。参加費は無料ですのでこの機会にぜひご参加ください!

【南丹市美山町(里山系)】
 ・基礎編     : 平成29年1月24日(火)〜26日(木)
 ・スキルアップ編 : 平成29年2月21日(火)〜23日(木)
【那須町(自然系)】
 ・基礎編     : 平成29年1月28日(土)〜30日(月)
 ・スキルアップ編 : 平成29年2月25日(土)〜27日(月)
【詳細】http://www.env.go.jp/press/103258.html


日本エコツーリズム協会(JES)
〒141-0021
東京都品川区上大崎2-24-9 アイケイビル3F
Tel: 03-5437-3080 fax: 03-5437-3081
e-mail:ecojapan@alles.or.jp
サイト:http://www.ecotourism.gr.jp






■ワールドカフェ開催意図
ワールドカフェが何故EDO(江戸)をテーマにしたのか
森治郎著「大江戸探見」一藝社より抜粋

「江戸」が最初に歴史に登場するのは、平安時代の終わり、12世紀末のことだとされている。鎌倉時代に編まれた史書「吾妻鏡」の1120(治承4)年の条に「江戸太郎重長」の名が何度か登場する。この年、源頼朝は相模国で挙兵し平家方に敗れ、いったん安房国に逃れてそこから再度勢力を拡大していくが、江戸太郎は最初は源頼朝の敵として現れ、頼朝再起の後はその軍勢に入ったことが記されている。その「江戸家」は支配していた土地の名に由来しているのである。江戸家が支配したから江戸ではなく、江戸を支配したから江戸家なのである。
「江」とは「海や湖の一部分が陸地に入り込んだところ」あるいは「川、海」そのものを意味する言葉であり、「戸」とは「出入り口」。つまり「江戸」とは「江の出入り口にあたるところ」ということになる。

その江戸の運命を変えたのは1590(天正18)年の徳川家康の入国だった。7月、豊臣秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、天下の覇者となった。そこで秀吉は徳川家康に国替えを言い渡したのである。秀吉の意図はよくいわれるように油断のならない家康を関東の“僻地”に追いやることだったろう。(中略)

家康が江戸城に入ったのは8月1日。実はかれはそれより前に腹心の部下たちを現地に派遣し詳しく調査させ、江戸の状況をほぼ正確につかんでいた。
そして白の内部の整備より先に城と川・海を結ぶ運河を掘り、そこから出た土や切り崩した山の土で湿地や浅瀬を埋め、そこへ居住地を作り、水道を導き、道路を整備した。その前向き姿勢はとても関東に追いやられた姿ではない。「関東こそ新天地」と心得たのだろう。考えてみれば江戸の周囲には日本最大の平野が広がっていたのである。急ピッチの建設の軌跡を見ると、転封はむしろ家康が望んでのことではなかったか、とさえ思えてくる。
1600(慶長5)年9月、家康は関ヶ原の戦いに勝ち、この時点で戦国時代最後の勝者となった。3年後、彼は将軍となり幕府を開いたが、在職2年で秀忠に引き継いだ。徳川治世のすごいところは、建設の手が次々に継承されたことだ。(中略)

家光の時代に制度化された参勤交代も結果として町の活性化につながった。全国から集まる武士たちが情報とお金を運んできてくれたのである。江戸の姿はどんどん変わり広がった。そうしたこともありどこからどこまでは江戸なのか、長い間はっきりしなかった。しばしば「江戸四里四方」といわれたが、それは日本橋から五街道を行くと東海道の品川、甲州街道(道中)の内藤新宿、中山道の板橋、奥州・日光街道(道中)の千住という最初の宿場がいずれもほぼその距離にあったことからいわれたもので、特に定めのあったものではなかった。(中略)

その江戸の人口は19世紀初頭には町人50数万、町人とほぼ同じくらいいた武家、それに僧侶神官など合わせると百万人を軽く超えていた。当時世界屈指の都市だった北京、ロンドンなどを上回り、パリの倍以上、ウィーンの数倍だった。町の数は「八百八町」をはるかに超えて1,700近くに達していた。当時の人は知るよしもなかっただろうが、江戸はロンドンの人口が1850年代に急増するまで「世界一の人口を持った町」だった。
その町が「東京」となったのは1868年10月23日(慶応4年9月8日)に明治が始まる2か月前のことだった。江戸城をはじめ周囲の大名屋敷は新政府の重要施設に、少し離れたところは文化施設や緑の核になった。多くの寺社も人びとを引きつけ続けた。江戸の町はまちがいなく「東京」という新しい街に生きているのである。(以下略)


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